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烏城彫の歴史

烏城彫生みの親

烏城彫生みの親 木口 九峰

初代 木口九峰
初代 木口九峰

木口九峰(きゅうほう)(本名:房四郎)は、1895年(明治28年)9月1日、岡山県の吉備郡久代村大字山口(現総社市久代)に生まれた。久代尋上高等小学校卒業後、父母に従い農業を手伝うかたわら、華道、茶道、尺八などの稽古をしていた。都山流尺八の奥伝免許、源氏流茶道を習い、京都の仁和寺華道御室流を研鑽して永年、華老職を受許、岡山県支部長も務めた程の風流人であった。

大正8年(1912年)尺八を習っていたことがきっかけとなり、八木調律師になる。2年後に岡山市弓之町で調律師として独立、そのかたわら自分の使う茶花の道具類用の材料を買ってきては彫っていた。自分で作る楽しみと、買うより好きなもの作って使用する。一石二鳥から初めているうち、調律の仕事より、木彫りが本職となっていた。

初代 木口九峰作品と二代目木口省吾作品
初代 木口九峰作品と二代目木口省吾作品

初期の作品には書類、茶箪笥に花柄、漢詩を彫ったものが多く、今でも戦災にあわなかった家庭には残っている。この様に、九峰が彫刻を始めたのは趣味から発展した作品である。商品として取り組んだものとは違い、素材も厳選、気に入るまで入念な仕上げするという取り組み方をしている。この精神は現二代目宗家、九峰の長男である木口省吾(きぐちしょうご)の代まで伝統的にそのまま受け継がれ烏城彫の真価となっている。

岡山の産物として恥ずかしくないと確信を持った九峰は、大正14年(1925年)に岡山のシンボル「烏城」(岡山城)を冠し、作品に「烏城彫」と命名、宗家を呼称し、ここに現在にまで至る烏城彫が誕生したのである。九峰の独創とする烏城彫、刀勢、肉付けのよさ(立体感)は、塗りの工夫と相俟って写実的な美を心憎いまで表現し高い評価を得るに至ったのである。

烏城彫初代宗家 木口 九峰 略歴
1895年(明治28年)岡山県の吉備郡久代村大字山口(現総社市久代)に生まれる
1915年(大正4年)華道御室流師範となる
1917年(大正6年)茶道源氏流中伝を修得
1918年(大正7年)尺八都山流奥伝を修得
1920年(大正9年)岡山市弓之町にてピアノオルガン調律師として独立、その傍ら趣味で木彫りを始める
1923年(大正12年)趣味の木彫りから、自身の作品として手がけ始める
1925年(大正14年)作品に「烏城彫」命名、宗家を呼称し烏城彫が誕生する
1927年(昭和2年)大日本岡山大博覧会へ烏城彫作品を出品
1930年(昭和5年)天皇陛下へ初めての作品献上、以後 昭和三十五年まで五回の献上
1933年(昭和8年)ピアノオルガン調律師をやめ、烏城彫が活動の中心となる
1934年(昭和9年)岡山県商品陳列所にて初めての個展開催
1940年(昭和15年)烏城彫研究所を岡山市丸亀町21に開所
1941年(昭和16年)岡山陸軍病院(岡山国立病院)にて講師として烏城彫の指導を始める
1945年(昭和20年)終戦により岡山陸軍病院での烏城彫の指導は一時中断する
1947年(昭和22年)国立病院協助授産場(結核患者の保護授産場)烏城彫講師として「財団法人協助会」参与となる
華道御室流岡山県支部長に就任する
1948年(昭和23年)岡山県立傷病者授産場(身体障害者の更生指導所)の「烏城授産場」設立に協力、烏城彫指導
1949年(昭和24年)厚生大臣賞を受賞、以後、総理・厚生・労働の各大臣より大臣賞六回
1953年(昭和28年)岡山県傷病者授産場「烏城授産場」閉鎖廃止にともない「烏城彫協会」を設立、許可申請する
1954年(昭和29年)授産場の主旨を継続し「財団法人烏城彫協会」を設立、理事長となる
以降、技術指導に尽くした九峰と烏城彫職人の絶え間ぬ努力により、烏城彫作品の品質の良さが社会に浸透し
社会福祉事業としての烏城彫と岡山県の特産としての烏城彫という功績が認められる
1955年(昭和30年)秩父宮妃、高松宮妃に献上、以後、各宮家に献上十二回
1957年(昭和32年)「労働大臣表彰」 全国身体障害者厚生週間
1963年(昭和38年)華道御室流華老職となる
1967年(昭和42年)「中国新聞文化賞受賞」 中国新聞社より
1968年(昭和43年)「岡山県知事感謝状」 第16回岡山県身体障害者福祉大会
1969年(昭和44年)「岡山県知事表彰」 身体障害者授護並びに産業功労者として受賞
「厚生大臣表彰」 第19回身体障害者福祉大会において、身障者福祉功労者として受賞
死去に際し、身体障害者更生授護の功労等により「従6位勲6等単光旭日章」を受章

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